【繰り返す歌詞に、なぜ心が動くのか】

ビンテージマイクが積まれた本の上に置かれた静かな情景。繰り返される言葉が、感情の記録として残る音楽の記憶を象徴するビジュアル。

「くり返してるだけの歌詞って、何がいいの?」

そう言われるたびに、少しだけ胸がチクリとする。

だって――それでも、泣いたことがあるから。

たったひとことを、何度も繰り返す歌詞。

その“だけ”のなかに、自分の記憶が重なって、感情が揺れてしまうときがある。

意味なんていらなかった。 むしろ、意味があるからこそ、伝えきれなかった。

繰り返しとは――残せなかった言葉の、形見みたいなものかもしれない。

言葉では整理できない想いが、繰り返しの中で“音”に変わる。

そんな歌詞の火種に、ふと自分の気持ちが重なる瞬間がある。

この記事を書いた人
ニンタ

ニンタ

・のらニンジャ

・感受性の隙間に忍ぶ、“静音の案内人” 

・Webメディア運営13年目

・元バンドマン7年、バンドリーダー

・元ボーカルギター

・いわゆるエモいのが好き

・作詞作曲したことあります

・ロキノン厨の血が騒ぐ…

・元書店員4年、元古書店店主10年、読書・選書が好き

・サクラや妙なレビューは、静かにAIで処理済み。見えないところで、ちゃんと守ってます。

・I am a Japanese creator.

繰り返しは、想いが“はみ出した”跡

言いたいことがあるなら、きっと他の言葉だって使えた。

でも、それができなかった。

“同じ言葉”をくり返すことでしか、気持ちが伝えられなかった。

そういう歌詞がある。

たとえば、サビの中で「ありがとう」「会いたい」「ごめん」をただ何度も。

それは理屈じゃない。――感情があふれて、はみ出してしまった証なんだと思う。

音楽を聴いて泣くときって、たいてい言葉よりも、

その「繰り返し」に刺さってる気がするんだ。

同じ言葉なのに、二度目、三度目には、まるで違う感情で届く。

繰り返すことで、むしろ“本音”に近づいていくような感覚すらある。

飾らない、むき出しの言葉ほど、繰り返されることで胸に響く。

“説明できない気持ち”に人は救われる

たとえば、BUMP OF CHICKENの「天体観測」。

back numberの「高嶺の花子さん」、RADWIMPSの「有心論」――

くり返す言葉の中に、あの頃の自分が生きていた。

平成の終わりごろ、どこか不器用で、まっすぐで、

言葉にできないものばかりを抱えてた時代。

うまく言えなくて、でも何かを伝えたくて、音楽にしがみついてた青春。

そんな記憶とリンクしてる人、きっと多いはずだ。

だから今、短くてノリのいい歌詞が増えても――

「同じ言葉が何度も流れてくる」あの感覚に、やっぱり心が止まる。

それはきっと、説明を超えて“確かだった感情”が、そこにあるからなんだ。

「わかってほしい」の先にある、「わからなくても届いてほしい」想いが、繰り返しには宿っている。

意味ではなく、共鳴だけで伝わることがある――

それが歌詞のすごさだ。

繰り返すことは、記憶を“とどめる”ための術

くり返すって、忘れないためにすることだと思う。

大切だったこと、戻れない時間、ほんとは言えなかった気持ち。

それらを、ずっと胸のどこかで再生し続けるために、くり返している。

歌詞のなかの「リピート」は、音楽構造じゃなくて、感情の記憶装置なんだ。

そして誰かがその繰り返しに引っかかったとき――

たった一語が、“自分の物語”に変わる。

それは、歌が誰かの人生に入り込んだ瞬間かもしれない。

だからこそ、繰り返す歌詞は、人生のどこかにそっと寄り添ってくる。

ふとした瞬間に、口をついて出てくるあのフレーズが、時を越えて自分を支えてくれる。

何度でもくり返す。だって、それが本当だったから。

くり返しは、弱さじゃない。

言えなかった言葉、残したかった想い、

それをぎゅっと抱えて歌うための術だ。叫ぶように。祈るように。

それでも、足りなくて。くり返しても、伝えきれなくて。

それでも―― 何度でも繰り返したくなるのは、きっと、その言葉が本物だったからだ。

“これしか言えなかった”その言葉こそが、心の一番奥にあったこと。

だからこそ、繰り返しは届く。何度も、何度でも。

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